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筑摩神社
(チクマ)
御祭神
御食津神
〔配祀神〕大歳神 倉稲魂神 大市姫神
〔配祀神〕大歳神 倉稲魂神 大市姫神
御神紋
稲穂
御由緒
社伝によれば、創祀は孝安天皇28年である。延喜式内神名帳には、社名は列しないが、古社であることは、延喜以前の文徳天皇仁寿2年に従五位下の神階を授けられたことでも知られる。神功皇后征韓の当時、御祈願をされ、又継体天皇が若狭国より還幸の途中、当社に奉幣の儀があったことが記されている。此の地は、古く大膳職御厨の置かれた所で、その鎮守として、御食津神を祀ったものと推想される。後、社殿を整備し、神域は東は内湖より西は湖浜を限り、南は磯、北は朝妻に至り、神境の規模を拡大し、広大な神領を有し、年35度の神事を営み、2度の大祭を執行したと言う。本社別当に6ヶ寺あり、僧徒は年中社頭に参籠し、経文を読み祈禱をしている。興福寺三綱牒記に「近江国坂田郡筑摩神社及五箇別六箇寺院者、則当寺之支配未社寺之処、近頃延暦寺衆徒等企異議社領寺納欲為押領云々、甚不可然、仍賜綸旨長者、宣永代改易之事、且甲乙人等乱妨狼籍停止之旨、早以伝下知彼寺謹悉知之云々、」と見え、当社々領併に附属六箇寺の寺領も、延暦寺の衆徒に押領されたので、早く此の狼籍を止められんこと請うたものである。其の後の変遷は詳でないが、社記によると、平清盛が社領を奪い、社殿が荒廃したので、興福寺の範雅僧都は源頼朝に社殿の改修を請うている。頼朝は建久2年、佐々木定綱に命じて社殿を再建し、伊勢国に於て神領を加へた。又明徳2年興福寺官務古市播摩澄胤、社殿を修造したが、応仁の乱に山名党の為に兵火にかゝり、社宝等焼失したことが記されている。永禄7年、神主筑摩相模守重実は、氏子等と湖北3郡の諸豪族を勧請して、神殿を造営し、祭典を再興した。「近江国坂田郡志より」明治16年郷社に列し、大正4年県社に昇格。同年神饌幣帛料供進指定となる。
本殿・境内建物
〔本殿〕3間社流造 間口2間 奥行2間3尺
〔拝殿〕入母屋造 間口4間 奥行4間
〔その他〕神楽殿 御輿庫 手水舎 社務所
〔拝殿〕入母屋造 間口4間 奥行4間
〔その他〕神楽殿 御輿庫 手水舎 社務所
境内社(摂社・末社)
天照皇大神
祭礼日
祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。
5月
3日
鍋冠祭り
7〜8歳の少女が狩衣に張り子の鍋をかぶって行列する。古来、婦女が関係した男の数だけの鍋をかぶらせることによって、女の貞操を守らせる祭りとされてきた。しかし筑摩神社の祭神が御食津神であり、当地に御厨(みくりや)があったことから、鍋は神供の運搬とかかわりがあったことも十分に考えられる。なお行列渡御には、鍋被りのほか鉾持ち・母衣・奴・曳山などがならぶ。
5月 8日
〔本務社|米原支部〕