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山津照神社
(ヤマツテル)
〜(青木さん)
御祭神
国常立尊
御神紋
菊 桐
御由緒
創祀年代は詳らかでないが、「神祇資料」によると、「山津照神社、今能登瀬村にあり、称徳天皇天平神護2年、近江地6戸を神封に充奉る」とあり、又「近江坂田郡志」によれば、「興福寺官務牒疏」に「山津照神。在坂田郡箕浦之東能登瀬。供僧三人。神主二人。神人二人。宣化天皇三戌午年。影向勧請。金勝寺四箇處鎮守之其一也」とあり、延喜式の小社に列せられた古社である。天武天皇の御代奉幣あり、文徳天皇より、仁寿元年正六位に進められ、清和天皇より、貞観8年正四位下に敍せられた。宇多天皇の寛平9年金勝寺の鎮守として、近江国の国司から、この年に年分度者2人に許可を与え、それぞれ飯道名神(信楽)と山津照名神とに仕えさせたい旨奏上したところ、朝廷もその請願を許可された。又醍醐天皇の延長6年、位記の印を請け、光明天皇の暦応2年、祈願あって本社を修造された。後光厳天皇の文和3年、御祈願があるなど朝野の崇敬が厚く、社領の寄進などがしばしば行はれた。中世は青木の宮と称せられていたが、明治以降はもとの山津照神社に復称し、明治14年郷社に列し、大正10年県社となる。近郷の総社として27ヶ村(現在は20ヶ村)の氏神として崇敬されている。境内にある古墳は、明治15年参道拡張工事の際発見されたもので、神功皇后の御陵候補地で、当社と深い関係がある。
本殿・境内建物
〔本殿〕3間社流造 間口4間 奥行3間3尺
〔拝殿〕入母屋造 間口4間 奥行3間
〔拝殿〕入母屋造 間口4間 奥行3間
境内社(摂社・末社)
青木神社 若宮八幡神社 春日社 北野社
史跡・名勝
山津照神社古墳 山津照神社古墳は神社境内、横山丘陵南端尾根東よりの丘陵上に位置し東側に後円部(徑26.4m)、西側に前方部(39.6)を持つ全長46.2mの前方後円墳である。天野川中流域から平地にかけては多くの古墳が展開しているが、いわゆる「息長古墳群」の一つである。 明治15年(1882年)神社境内拡張工事に際して発見されたが、石室は埋戻され内部の状況は「古墳に関する書類」として記録されている。これによると約4.6mの羨道の奥には広さが約12??高さ2mの玄室があり家形石棺が描かれている。 石室の内部からは、倣製の銅鏡2面(獣文鏡・五鈴鏡)、金銅製冠、鉄刀、水晶製三輪玉、鉄製刀子、馬具、(轡・杏葉・鞍金具・鎧・雲珠・辻金具・吊金具)、須恵器(蓋杯・台付広口壺・広口壺・大型器台)が、前方部から銅鏡一面(内行花文鏡)、鉄剣、鉄塊が墳丘から埴輪が出土したと伝えられている。また渡来系氏族や朝鮮半島との関わりを示す金銅製冠、葬送儀礼に解明に必要な赤色顔料なども発見され古代天皇家と深い関わりのある息長氏にかかる墳墓であることを物語っている。
主な祭礼
角力神事
後烏羽上皇参拝の時からと伝えられる。以前は県内は勿論、隣県からも力士が参集し、地方としては稀なる盛観を呈したこともあった。角力は青年力士による式角力から始まり、小・中学生、青年と進み、中入りまである。式角力はいかなる天候でも中止することなく執り行われる。
後烏羽上皇参拝の時からと伝えられる。以前は県内は勿論、隣県からも力士が参集し、地方としては稀なる盛観を呈したこともあった。角力は青年力士による式角力から始まり、小・中学生、青年と進み、中入りまである。式角力はいかなる天候でも中止することなく執り行われる。
祭礼日
祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。
9月
角力神事
9月第2日曜日
〔本務社|米原支部〕