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立木神社
(タチキ)
御祭神
武甕槌命
御神紋
下り藤
御由緒
神社啓蒙扶桑拾葉集並に社記によると、称徳天皇神護景雲元年常陸の国鹿島より遷座され、邑人等黒木の新殿を造り斎祀したと伝えられ、これが当社の創祀とされている。
命は更に旅起たんとして柿の木の鞭を社の傍にさし立てて、この木が生えついたら我三笠山に永く鎮座すると申された、するとこの柿の鞭が即座に生えつき根を成し枝葉繁茂した。邑人等はその御神徳を恐み、これを神木として崇め奉り立木大明神と尊称した。
光仁天皇宝亀八年に大旱魃のため湖水も枯渇した為天皇中臣に諸魚に勅して当社に祈願されたが、忽ちにして霊験あり大いに雨が降った。帝大いに悦び給い正一位立木大明神の勅願を賜り社殿を造営された。
延暦二十年田村将軍当社に祈願して東夷を征せられ、大般若経一部を寄進された。また享受元年将軍足利義尚が栗太郡釣村に在陣の時、当社に立願し、願成就して四脚門を奉建した。
正保二年膳所城主石川主殿頭忠絵が社領二十三石を寄進し社殿を造営せられた。爾後代々城主より寄進が続けられた。
明治十四年郷社に加列。昭和十三年神饌幣帛料供進指定。
命は更に旅起たんとして柿の木の鞭を社の傍にさし立てて、この木が生えついたら我三笠山に永く鎮座すると申された、するとこの柿の鞭が即座に生えつき根を成し枝葉繁茂した。邑人等はその御神徳を恐み、これを神木として崇め奉り立木大明神と尊称した。
光仁天皇宝亀八年に大旱魃のため湖水も枯渇した為天皇中臣に諸魚に勅して当社に祈願されたが、忽ちにして霊験あり大いに雨が降った。帝大いに悦び給い正一位立木大明神の勅願を賜り社殿を造営された。
延暦二十年田村将軍当社に祈願して東夷を征せられ、大般若経一部を寄進された。また享受元年将軍足利義尚が栗太郡釣村に在陣の時、当社に立願し、願成就して四脚門を奉建した。
正保二年膳所城主石川主殿頭忠絵が社領二十三石を寄進し社殿を造営せられた。爾後代々城主より寄進が続けられた。
明治十四年郷社に加列。昭和十三年神饌幣帛料供進指定。
本殿・境内建物
〔本殿〕三間社流造 間口三間三尺 奥行三間
〔拝殿〕入母屋造 間口三間三尺 奥行三間三尺
〔拝殿〕入母屋造 間口三間三尺 奥行三間三尺
境内社(摂社・末社)
松尾神社 天満宮 三社神社 稲荷神社 多賀神社 熊野神社 龍田神社 鴨神社 竹生島神社 日吉神社 広田神社 愛宕神社 八坂神社 大将軍神社 恵美須神社 英霊社
主な祭礼
さんやれ踊り
祭礼日
祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。
5月
3日
例祭(さんやれ踊り)
立木神社祭神が鹿に乗り西征のおり、矢倉地区に先住していた人々が神をお迎えするにあたり、踊りを以って迎えたのが始まりという。神輿渡御の際、先導を司り、稚児(当番宿の男児)が先頭となり、太鼓・鉦・ささらを持つた男児数名が続き、次に音頭取り(唄方)の青年が続く。 なお2日夕方にはささらに替り、笹の葉をもつて踊る。これに参加する者はすべて男子で、居住と呼ばれる家(現在24戸)のみである。
〔兼務社|草津・栗東支部〕