郵便番号 | 〒 5200036 |
鎮座地 | 滋賀県大津市園城寺町251 |
TEL | 077-522-3044 |
FAX | 077-525-8091 |
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三尾神社
(ミオ)
〜(みおんさん)
御祭神
伊弉諾尊
〔配祀神〕白尾神 黒尾神
〔配祀神〕白尾神 黒尾神
御神紋
真向きのうさぎ
御由緒
「寺門伝記」補録第五三尾明神祠に三尾明神について書かれている。三尾明神はその昔伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神となられた。この神は常に三つの腰帯をつけておられた。ある時その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となられ、それぞれ三ヶ所で出現された。最初の出現は赤尾神で、上の三尾(琴尾山 山上の祠)と称されたが、出現の時は太古卯年の卯月卯日卯の刻というだけで何の時代の何年という事が不明である。第二の出現は白尾神で、場所は現在の三尾神社(筒井の祠)とされている。出現の時は文武天皇の大宝年間の夏というだけで何年という事が知られていない。第三の出現が黒尾神で鹿関の地でこの神のみが称徳天皇の神護景雲三年三月十四日の出現とされている。三神とも御本体は一つで伊弉諾尊となっている。之を上の三尾・中の三尾・下の三尾と称されていた。
社殿に関しては、貞観元年の春、園城寺の開祖である智証大師円珍が琴尾谷に復興した後、室町時代応永三十三年足利将軍が現存の本社を再興した物である。慶長四年には太閤秀吉が社殿の修理を加え、若干の朱印を下附せられた。本社が上の三尾(琴尾谷)より現在地に移ったのは明治九年の琴であり、明治十四年に郷社に加列された。明治二十二年には内務省より古社保存資金を下賜され、明治四十三年に県社に昇格している。
又「寺門伝記」補録に、三尾明神と長谷寺縁起との関連も記されている。その部分を引用すると、「近江国高島郡に神有り、三尾明神と号す。名神官社なり。その所を名付けて三尾が崎という。養老年間に道明、徳道の二僧あり。始めて長谷寺の観音像をつくる。その像材は近江国高島郡三尾が崎より流出す。漂ふて大津の浜に至る時、材木の上に三つの小蛇ありしが忽然とはい出て陸に上り西の山を望んでいる。これ即ち三尾明神なり」。とある。この故事により、毎年一月わらで蛇形をつくり悪疫退散を祈る蛇打ちの神事がある。また七月二十二日、二十三日に境内社日御前神社で朝瓜祭が斎行される。
社殿に関しては、貞観元年の春、園城寺の開祖である智証大師円珍が琴尾谷に復興した後、室町時代応永三十三年足利将軍が現存の本社を再興した物である。慶長四年には太閤秀吉が社殿の修理を加え、若干の朱印を下附せられた。本社が上の三尾(琴尾谷)より現在地に移ったのは明治九年の琴であり、明治十四年に郷社に加列された。明治二十二年には内務省より古社保存資金を下賜され、明治四十三年に県社に昇格している。
又「寺門伝記」補録に、三尾明神と長谷寺縁起との関連も記されている。その部分を引用すると、「近江国高島郡に神有り、三尾明神と号す。名神官社なり。その所を名付けて三尾が崎という。養老年間に道明、徳道の二僧あり。始めて長谷寺の観音像をつくる。その像材は近江国高島郡三尾が崎より流出す。漂ふて大津の浜に至る時、材木の上に三つの小蛇ありしが忽然とはい出て陸に上り西の山を望んでいる。これ即ち三尾明神なり」。とある。この故事により、毎年一月わらで蛇形をつくり悪疫退散を祈る蛇打ちの神事がある。また七月二十二日、二十三日に境内社日御前神社で朝瓜祭が斎行される。
本殿・境内建物
〔本殿〕三間社流造 間口三間 奥行二間三尺
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間
〔その他〕
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間
〔その他〕
境内社(摂社・末社)
坂下稲荷神社 日御前神社 夷子神社と白髭神社は相殿 天満宮 白山神社と愛宕神社は相殿
祭礼日
祭礼日は神事(祭儀)のみ行ない、御神輿・山車・露店などは別の日に出る場合があります。お出かけの際は念のため神社にお尋ねください。
5月
2日
例祭
渡御は3日
7月 2日 朝瓜祭り
日御前神社の例祭。天武天皇の子大津皇子の第三の姫宮瓜生姫の創建で、もと中保町に鎮座のところ、明治四十四年三尾神社境内に遷し末社とした。 子供の病気(夜泣き・かんのむし)、安産に霊験あらたかな姫宮信仰の神霊石があり、この神霊石が朝瓜形をしているところから、参拝者は瓜に子供の名前を書いてお供えをする風習ができた。
〔本務社|大津支部〕